ふたつの双葉町

4月18日付東京新聞より。

「埼玉」とすれ違う思い 福島県内避難の双葉町
「少しでも故郷の近くに」「みんなこっちに来い」


福島第一原発の事故で、町民約7000人のうち約1400人が役場ごと埼玉県に移転した福島県双葉町。一方、故郷に近い福島県内にとどまる町民も多い。中でも猪苗代町には370人以上がいる。終わりが見えない避難生活。200キロを超える距離を隔て、マチの絆は揺らぎ始めている。


震災から1カ月がたった今月11日午後。養蜂業の小川貴永さん(40)は埼玉県加須市の旧騎西高校の避難所で目を閉じ、福島の妻と子どもを思った。
「家族を呼びたいが、生活拠点がまだ定まらない」
同日夕、加須市から北へ約250キロの猪苗代町
「(加須市で)みんな一緒にいて何が変わるの」。
新しい避難先のペンションに移ったばかりという妻の恵子さん(31)は疲れた表情で話した。
福島県浪江町の実家で被災し、双葉町にいた貴永さんと離ればなれに。先が見えるまで、貴永さんは町ぐるみの避難に参加して埼玉へ、恵子さんは双葉町のそばにいようと話し合い、2歳と1歳の息子を連れて避難所を4カ所回った。この1カ月、ずっと床に毛布を敷いて寝た。
「心底疲れた。今はただ故郷の近くで、子どもと布団でゆっくり眠りたい」
ペンションから20キロのホテル「リステル猪苗代」。ここに町民370人が暮らす、もうひとつの双葉町がある。
「みんなこっちに来い。帰って来い」。
双葉町に50年以上暮らす竹村彪さん(80)は、ホテルのロビーで泣き出しそうな顔をした。
「故郷から離れたくない」。
竹村さんはその一心で県内の避難所を転々としている。だが隣近所の知人はみんな埼玉へ。声が聞きたくて毎日電話する。
「双葉の近くにいたい」「みんなと離れたくない」。
心は揺れる。
同じロビーで兼業農家の40代男性は言った。
「埼玉に行くつもりなんて、さらさらないね」。
男性は避難指示が出た15日から1週間、母親と自宅に取り残された。車のガソリンがなかった。
南隣の大熊町はバスで住民を避難させたのに
双葉町は助けてくれなかった」。
草刈り機用の混合油5リットルを車に入れ、ようやく町を出た。
だから
「一緒に埼玉で暮らしましょう」
という井戸川克隆町長の呼びかけを、冷めた思いで聞いている。
「ふるさとにいつ帰れるのか、町は答えられない。一つにまとまって何をしようというのか」
東京電力の協力会社に勤め、今も原発の20キロ圏内で除染作業に追われる男性(34)は
「怖いけど、ここを離れるわけにはいかないんだ」
と声を荒らげる。
新聞には「埼玉双葉」の記事が目に付く。中学校の入学式、就労や生活相談の開始…。
「何で埼玉ばっかり」。
読むたびに焦りが募る。
「みんな逃げて行った。埼玉で職を探せと言う。もう双葉町はないんだ」
埼玉県に移った双葉町民は、さいたま市さいたまスーパーアリーナを経て、先月30日に加須市へ。今月12日時点でプライバシーや職探しなどを理由に50人以上が去った。
井戸川町長はこれまでの避難生活を
「過去と現在のことばかりで、未来を考える時間はなかった」
と振り返る。
町にも町民にも、「先」は見えない。

報道を見ている限りでは、どうも「埼玉双葉」の町長・町民の言動には共感・同情がしにくいのだが、ネット上でも現場からの声という形で、彼らを難じる言説が時折見られる。
それらを実際に、個別・具体的に検証することはもちろん僕にはできないが、どうもその背景には町長/反町長派、原発推進派/反対派の対立が横たわっていることは覗える。彼らも決して一枚岩ではないようだ。
今回の記事は、その傍証になっているだろうか。