レッツゴー仮面ライダー

先日、妻が仕事で出かけた隙を盗んで『レッツゴー仮面ライダー』を観てきた。思い出に泥を塗られたような『オールライダー対大ショッカー』と同じ監督・脚本コンビなので少々不安だったのだが、あちらが平成ライダー10周年だとすれば、こちらはライダー生誕40周年。あまり不敬なことも出来なかったようだな。


まあ、映画としては正直かなりグダグダですよ。歴史の修復→失敗→修復→失敗の単なる繰り返しだし、複数の時間軸やグループ単位の連関も悪いし。
でもね、お祭りだから。『スター・ウォーズ』EP3が単体としての出来は「?」でも後半、画面がEP4に向かってどんどん遡っていく、ただそれを見ているだけで27年間という時間が幸福に埋められていくように、『レッツゴー仮面ライダー』は子供時代の記憶を40年間義理堅く持ち続けた、あるいは今でも思い出すことが出来る中年男どもへの、ささやかなご褒美である。
仮面ライダーが倒され、ショッカーによって支配された世界の暗黒の40年間はそのまま、もし『仮面ライダー』がなかったら自分の生はどうなっていたか、の暗喩にほかならない。
もちろん、『仮面ライダー』がなくたって生きてはいけたろう。だが少なくとも、自分の背骨が何対か欠けていただろうことは確かだ、いやマジで。
それは、ライダーなき世界のスラム(その描写は今や、図らずも負のリアリティを持ってしまった)に生きる希望なき少年たち――ネガとしての少年仮面ライダー隊のリーダーが「ミツル」と「ナオキ」それに「シゲル」であると判明するあたりで明確になる。
そして、彼らの前に登場する“悪”の仮面ライダー1号&2号に、あの“ショッカーライダー編”(TVも原作も)が重なって見えれば、ノスタルジー発動だ。
たとえショッカー首領や2号ライダーの声に老いを痛感しようとも、やっぱり本物なんだよ。1号ライダーだってV3だって、ジェネラルシャドウだってそうだ。さらには画面の端々で蠢く再生怪人たち(どうしてシオマネキングってやけに目立つんだろう。いや好きなんだけどさ)も、記憶(ノスタルジー)を刺激する。
そう思って見れば、メダルを取ったり取られたりの(グダグダな)攻防さえも『ライダー』名物の、いや東映娯楽劇のお家芸、さらに言うなら日本の伝統を受け継いだ伊上勝の作劇テイストではないか。
そして、倉庫の中でショッカーに取り囲まれたミツルとナオキの危地に「待ていっ!」と“あの”メロディと共に飛び込んでくるダブルライダー! その瞬間、40面下げた中年男は平日昼間、ガラ空きの映画館で涙ぐんでしまったんである。


40年――自分の人生とほぼ等しい時間を経て再現されたあの頃そのままの一場面、映画のストーリーそのままのタイムスリップはもちろん当時のものではなく、今作られた映像である。ライダーもショッカー怪人も少年ライダー隊も、新たに“再生”されたコピー品だ(そのコピー行為自体もある程度感動的であるとはいえ)。しかし、そこに流れる“声”はまぎれもなく“本物”の仮面ライダー1号2号――本郷猛と一文字隼人!
生身の本郷&一文字=藤岡弘、佐々木剛であれば、さすがに時の経過は隠せまい(老境のダブルライダーもまた、ぜひとも見たくはあるけれど)。だが、新スーツに“声”ならば、多少の衰えには目をつぶって、あの頃のライダーが甦ってくる。仮面ライダーが不死身の「改造人間」であることが、メタレベルで実現されるわけだ。
こうなればもう、後はいかに展開や演出が大雑把であろうと――ダブルライダーの洗脳の解き方、クライマックスの総登場におけるライダー一人一人の見得の切り方やエキストラの軽さ、あの脱力の突撃フォーメーションでさえも、許そうという気になってくる。
ライダーの永遠性を巡るデンライナー・オーナーの宣言にしても、気恥ずかしく思いながらも、どこか素直に感動している自分がいる。
そして、ダブルライダーから後に続く者たちへの温かく力強い檄――そこには、自分の中のポジティヴな“子供”の部分を、次代へと継承させていく“大人”の決意がある。恥ずかしながらこのときほど、俺は自分が子供を持っていないことを残念に、また後ろめたく思ったことはない。
「ヒーロー番組は教育番組だ」とかつて喝破したのは、今回2役のヒーローを演じた宮内洋だが、この子供向けの春休み特撮ヒーロー映画は、“子供”であり続けながら“大人”になる途を、我々ボンクラ中年に指し示す。やっぱり仮面ライダーは、いつだって俺たちに背骨を通してくれるのだ。


――でも、どうしても抑えられない不満をちょっとだけ。
71年11月なら、ブラック将軍じゃなくてゾル大佐だよね。ストーリー上からも、進まぬ日本制圧のテコ入れに送り込まれた幹部第1号の大佐こそ、コインを手に入れライダー打倒を成功させるにふさわしいと思うんだが、ひいきの引き倒しですか?
あと、タックルを入れてやって。