神様が語るプロ野球と災害(その3)

白球の記憶 災害復興とプロ野球
杉下茂さんに聞く


下 東西対抗戦開催(1945年)
終戦直後 鈴なりの人


私は1925(大正14)年に東京・神田で生まれた。関東大震災はその2年前のことで体験はしていないが、24年に始まった選抜高校野球は、震災復興の願いを込めて開催されたと聞く。このように、日本では昔から、野球が人々の生きる力となってきた。
私は第2次世界大戦中に中国で捕虜となったとき、呉淞(ウースン)という収容所で野球をすることを許された。暴動を起こされるよりは、スポーツでもやらしておこうという考えだったらしい。私のように、戦争に負けて鬱屈した心を、野球に救われた人は少なくないはずだ。
プロ野球は、終戦からわずか3カ月後の45年11月に神宮などで東西対抗戦を開いている。翌年には東京六大学野球都市対抗野球などが再開された。食料も衣服にも困る時代だったが、どの試合も鈴なりの人だった。
最後まであきらめずにプレーする選手を、自らに置き換えていたのだと思う。
私は明治大学を経て中日に入団し、応援される側になった。自分たちのプレーが戦後の復興を支えたとはおこがましくて言えないが、長嶋、王の出現によるプロ野球全盛時代が、高度成長と重なっていったことは事実だろう。
今回の震災では、プロ野球の開幕が延期されるなどの非常処置が取られた。私も賛成だ。今は昔と違って、国民の好みが多様化し、野球が一番という人ばかりではなくなった。加えて、電気の問題もある。3月中にしかもナイター開催というのでは、ファンの支持は得られない。
元来、ファンに夢や勇気を与えるのが、プロ野球選手の仕事だ。これからは被災者のことをおもんぱかりながら、一つのプレーを全力でやることを考えるべきで、それが「よし、自分たちも」という復興の力に変わることだろう。震災に遭われた方々に、野球が少しでも勇気を届けられますように。一人のプロ野球OBとして切に祈っている。

ここで語られているのは、野球が今とは比べものにならないほど国民にとって大きな、象徴的な存在だった時代であるとともに、選手もまた被災者と同じ側・立場に立っていたという状況だ。
今回のセ・リーグの無様な迷走は、ナイター開幕が物理的に無理であるという以前に、その2点を完全に置き去りにしていたから総スカンを食った。
野球に限らずスポーツで元気づけたいとか言うなら、被災地出身の選手でチームを組むくらいのことをしたらどうだろう。
それが無理なら(というか実際無理でしょうけど)、せめて客と世間を不愉快にさせない商売をすべきだよな。