さらばヤマト西崎

宇宙戦艦ヤマト』への情熱――西崎義展さんを悼む
山本暎一

 西崎さんが亡くなった、とファックスで知って、驚いた。
 最後に会ったのは、「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」(2009年)を、2人、事務所で見たときである。編集のシロウトっぽさが気になり、「舛田(利雄監督)さんがやったの?」と聞いたら、モジモジして、「近ごろはお目にかかっていないので…」という。私は、ハハーンと思った。一から十まで自分を通すには、口うるさい監督は邪魔なのだ。金さえ出せば、そこまで徹底するのか、と鼻白んだものだった。
 出会いの最初は、45年も前だが、私がアニメ制作会社の虫プロの役員兼ディレクターとして、テレビアニメ「ワンサくん」(1973年)のプロデューサー西崎さんと相対したときである。仕事を引き受けてもらえると思い、「じゃあ」と立ち上がる西崎さんへ、私は涼しい顔で「まだ、きめてませんけど」といった。よっぽど気にさわったのだろう、それから何度もその話をし、怒っていた。
 彼は音楽ではプロだったが、アニメでは全くわからなかった。会議で、私が文句をいいだすと、「ちょっと待って」と全員を部屋から出し、バタッと土下座をして、「教えてください」と額を床にこすりつけた。しかし、これほどもの覚えの早い人もめずらしかった。テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」(1974年)では、下手でも黒板に絵を描いて説明し、しまいには原画まで描きそうになった。
 その後、私は日本映像記録センターに所属して、外国をとびわまる日が多くなったが、戻ってくると、松本零士監督とトラブルになっていた。構成に、気にいらないところがあるらしいのだ。企画書をまとめたのは私だったから、知らん顔もできず、各話のラフを書き、何本かは脚本にして、渡した。すると、それからは、シナリオと絵コンテのチェックが私の役になり、ロンドンのホテルにまで航空便が追いかけてきたのには、びっくりした。
 映画にしたときは、客が前の昼から並んでいると報せがきて、西崎さんは感動して走り出していった。「ヤマト」の超大ヒットはそこからだ。
 たしかに彼にとっては、アニメは金もうけの手段で、それも上手ではあったが、作品づくりになると寝食を忘れ、異常なまでの熱の入れようだった。
 やりたい放題の遺作を残したのも、いかにも西崎さんらしい、のかもしれない。
(11月26日付/東京新聞夕刊・文化面)

いいことも悪いこともひっくるめての追悼。人間と丸ごとつき合うって、そういうもんだよな。